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ばっちーーーーーん。
強烈な平手打ちが遥の左頬に炸裂して、よろっ、と右側によろける。
思わず反射で左頬を押さえ、うつむけた顔を掬いあげるように視線をあげたら。
遥の視線の先には、知らない中年女性が般若の顔で、腕を振り下ろしていた。
誰?知らない。
思わず心の中でつぶやいた遥は、少し目を細める。
違和感がすごいからだ。あれだけの音がしていたにもかかわらず、あまり痛まない頬。そして見知らぬ中年女性。
……違う。この人、知ってる。
記憶が蘇り、弾けるように脳裏にシーンが蘇る。
あんたみたいな薄汚れた人間がうちの息子の恋人なんて、はた迷惑もいいところなのよっ!
そう叫んで、ヒロインに強烈なビンタをかました、敵役の母。
寝る前にスマホで見ていた、ショートドラマの登場人物の一人だ!
待て。
思い出したからといって、一件落着と言っていいわけがない、と遥は思いとどまる。
頬は痛まない。
寝る前に見たドラマの登場人物が目の前にいる。
ってことは、これは夢だ。そう認識して目を覚まそうとするのに、ちっとも現実に戻る気配がない。なに?流行のドラマの中に転生ってやつ??
焦る遥の前に、もう一人の人物がゆったりと姿を現した。
す、鈴木さん!!!
思わず声をあげそうになる。
なぜか、ダブル博士号取得を自慢し散らかす嫌味な敵の男役が、見知った同僚の姿になっていて、遥はとうとうこらえきれず、絶叫した。
「鈴木さん!」
遥は自分の声に驚いて、飛び起きる。
「なんだ、夢か」
痛みはないものの、かなりリアルなビンタの夢。
そして、出てきた同僚の鈴木。
「今日は、新年度の始まりの日だもんなぁ」
実は、イヤな一日は記憶にも残らず過ぎ去って、もう4月2日になっていないか。
そんなあり得ない期待を込めて、枕元のスマホを手に取ってロック画面を点灯させようとする。
しかし、スマホの画面は黒く沈んだまま。
「……最悪」
充電もせずドラマを見たまま寝落ちしたらしく、バッテリーが空になってしまっているらしい。
寝落ちするほどドラマを見たから、あんな変な夢を見たのか。
一つため息をつくと、のろのろと充電コードをスマホに刺すと、朝食と身支度のために立ち上がった。
✿
昨日と同じ今日が来ただけで、月の数字が一つ大きくなっただけなのに、それだけで「年度代わり」と言われて、なんとなく職場の空気も浮き立つ。
やらなければいけない仕事が一新するはずないのに。
ざわつく職場の雰囲気にいたたまれず、遥は気分転換にコーヒーを入れようと、柱の陰にあるコーヒーマシーンに向かう。
柱の陰から、女性たちのささやき声が聞こえ、遥は嫌な予感がしてとっさに、向かいにある文具置き場で必要な備品を探しているふりをした。
「ねぇ、また水野さんってアシスタントのままなの?」
「そうみたい。昇格話はちらほら出ていたらしいんだけど、やっぱさぁ。水野さん同期の鈴木さん、資料のデキは多少粗くても、あの堂々とした感じがいいって、部長の鶴の一声で」
「分析資料より、交渉術ってか?」
「バリバリ体育会系の部長が言いそうなことだねー」
「水野さん、あんなに分析的確なのに、可哀想」
「でもさ。これからは、分析なんてAIがちゃちゃっとやっちゃうだろ?ってさ」
聞こえてくる声からすると、数年下の後輩女性たちだ。
言ってることが的確過ぎて、遥の心をえぐってくる。内示のときに味わった絶望が再び遥の足元ににじり寄り、視界がぐらりと揺れた気がした。
「はーい、そこの子たち~モーニングコーヒー飲みたいんで、どいてくれる?そんなとこにいたら、コーヒー淹れられないじゃん」
柔らかい声でズバズバと切りこむような口調で、また別の女性が割り込む。
麻衣だ。同期の、業務アシスタント職。
「あっ、高橋さん……すいません、どきますっ」
さわさわと、焦った雰囲気をまとって後輩たちが散り散りに散っていった。
なんだろう。 イケメンだと、語る言葉までイケメンなのか。 食事を終えて一緒に電車に乗り、先に遥が下車するまで藤堂は完璧な紳士のふるまいだった。 電車を降りてドア越しに手を振ってはじめて、「あっ、ここはコーヒーでも飲みによりませんか、って言うべきだった?」という疑問に襲われたぐらいで、どうやったらあんなに完璧な配慮ができるんだろう?と、遥は不思議でたまらない。 遥はふわふわした頭のまま、翌日の日曜を過ごした。 いつまでも恋にうつつを抜かしているわけにはいられない。もう三十路が見えているんだし、ここは大人としてしっかりやることをやらなければ。夕方からマーケティングの理論の本を読み、平日に向けてビジネスモードを高める。 そして、週が明けて月曜日。遥の昇格と異動が正式にマーケティング部に周知された。「み、水野さん、企画担当おめでとうございます!!だ、だけどっ」「もう、チームを率いてくれないんですか?」 部内共有チャネルで情報が流れた後、あちこちで後輩たちが立ち上あがり、遥のもとに駆け付けてくる。「うん、ごめんね。本当はずっと商品企画が希望だったの。欠員が出るからって、打診が来たんだ」 昇格について言及する人もいるが、それよりも遥が異動することの懸念の方ばかり言われて、遥はひとまず部署異動の方にコメントする。「でもそんな、マーケ部で主担当業務に慣れてから異動したっていいじゃないですかっ」 そう言う後輩の向こうで、鈴木がこちらに視線を送っていることに、遥は気が付いた。 でももう。関係ない。 遥は自然な動作で、鈴木の視線を切った。「はいはい。それでは、資料のまとめ方の極意を知りたい人!」 遥の周りで、バラバラっと手が上がる。「じゃ、どこかで資料のまとめ方の引継ぎ会するから、ほら皆、仕事仕事!」 いつまでたっても終わらなさそうな雑談を、遥は強制的に終わらせて後輩たちを席に戻す。「ふぅ」 さすがにため息をついて席に座ったら、向かいの席の後藤が面白そうに声を掛けてくる。「人生最大のモテ期じゃないですか?」「失礼ね。モテ期は他にちゃんとあります」 モテ期。……藤堂。 反射的にそう連想し、思わず顔が赤くなる。赤くなってるとわかっているけど止められない。 後藤にどう思われているんだろう、そう思ったけど、後藤は全く注意を払わず、そのまま
遥は見たくないとばかりに一度ぎゅっと目を瞑り、そこからそろそろと半眼を開ける。 薄目じゃないと怖くて確認ができない。「えっと……週末、どこかでデートしませんか……えっ……」 遥ははっきり目を見開くと、麻衣の手からスマホを取り返す。 デートしませんか その短い文字を確認し、画面の上にメッセージ主の名前を確認する。 藤堂悠真。 間違いない、本人だ。「これって」 遥は呆然と画面を見つめる。「ここまできて、告られてないとか御託並べないでよ?もうはっきり、お誘いされているじゃん」「うそ」
言っちゃった、言っちゃった、言っちゃった。 なんてことを言っちゃったんだろう。 暗い窓ガラスに映る自分の顔を見つめる。こんな地味な顔で、あんなにイケメンで有能な男性に、あんなとんでもないことをとうとう言ってしまったなんて。 座れはしないが、人と触れ合うことなく立っていられる車内で、遥はわぁぁぁっと叫び出したい気持ちをぐっとこらえた。 なんだかそれは、泣き出したい気持ちをこらえているのに似てるな、と遥はぼんやり思った。 ✿ 家にたどり着き、熱いシャワーを使って人心地ついてた遥は、へたりこむようにベッドの縁に座り込んだ。 あの言葉。 ふいに、思わず言ってしまった言葉が再び脳裏に浮かぶ。 叫び出したい気持ちが止まって、ちょっと落ち着いた今、自分言ったあの言葉は、「わたしからも|≪お付き合いを≫お願いしたいです」という意味だと果たして正しく伝わったのだろうか、という疑問が遥の胸の内に浮かび始めた。
は、遥……な、名前で呼ばれた…… そんなことを考える場合ではないことはわかっている。わかっているけど、突然の展開に遥の頭が付いていかない。「で、でも、わたしたちまだそんなに……知り合って間もないって言うか」 震える声で、何とか答える。 藤堂といっしょに案件を遂行したこの数か月で培ったはずの自己肯定感がどこかに飛んでいき、また以前の自信のない遥に戻っている。 いや、恋愛の面だけで言えば、鈴木に躓いた経験のせいで、自分の「男性を見る眼」の不確かさという失点が上乗せされていて、より臆病になってさえいる。 絶対、面倒くさいと思われている。 遥は視線を落とし、膝の上でぎゅっとこぶしを握る。 だがそんな遥に、藤堂は穏やかに声を掛ける。「時間は短かったが、あれだけ色々あった案件を一緒にやってきたから、仕事の表面だけじゃない、人柄もよくわかるような付き合いはできたと思う」&nb
「なに、遥。藤堂さんとプライベートなLINEの連絡先、交換したんだ」 麻衣の一言に、遥は慌ててスマホの通知画面を手で隠し、上がってしまっている口角を何とか元に戻そうと格闘する。「え、うん、なんかそういう流れになって」 我ながら言い訳が下手だ、と遥は思う。どういう流れなんだ。そもそも、どこからそういう流れになったのか、とか更なる質問を誘発しかねない言い訳を口にしたことに気が付いて、遥は後悔する。「流れ、ねぇ」 意味深につぶやくと、麻衣はちょうど運ばれてきたパスタに手を付ける。「なんにせよ、鈴木から完全に解放されてなにより。同じ立場に昇進してさらに部も異動、プライベートでもはるかに格上の藤堂さんとうまくいきかけている。人生突然好転したじゃない」 思いもかけない達観した台詞に、遥は戸惑う。「え、そうだけど……何もツッコまないんだ」「ツッコんでほしいの?」
高級そうな内装の車に乗っている遥は、急に停車したせいで、がくんと前につんのめった。 あんまり上手じゃないな、この運転手。 そう心の中でこぼしていると、ドアが外側から開けられる。「降りろ」 冷たい声でそう言いながらも、手を差し伸べてくるのは――藤堂。 あ、夢だね。これ。 すぐに夢だとわかるようになったきたけど、わかったからといってすぐに夢から覚めるわけではない。夢が行きつくところまで行きつくまで、遥には拒否権はないのだ。 だったらせめて、心臓に悪い事態に陥りませんように、と遥は祈る。前みたいに、キスしようとかして顔を近づけられたら、わたし、息が止まるかもしれない。 そう思って車から降りるのをためらっていると、藤堂は苛ついたかのように強引に遥の手を取り、無理やり降車させる。「ちょっ、藤堂さん!」







